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コラム

コレラに苦しめられた志ちと徳次郎 ― 今昔物語「今はコロナ」「昔はコレラ」

三河地方にもコレラが蔓延、コレラに苦しめられた志ちと徳次郎」

流入者がいた場合、戸籍で判別をしていたが、警察は流入者がコレラを持ち込んだのではないかと、流入者を調べ始めた。―とある、男性女性の駆け落ち夫婦に目をつけた― その二人は、小渕志ちと徳次郎(中島伊勢松)である。二人はお伊勢参りの夫婦をよそおい、甲州、遠州を経て二川の宿に着いた、宿帳から上州の人と知れると、その夜の内に「糸繰りが上手な人が泊まっている」と云う噂が広まり、長雨で逗留せざるを得ない二人を囲んで製糸技術の話しを聞こうと養蚕の篤農家や繭仲買商などが集まって来た。志ちは二川に拠点を作る決意をする。

 

「愛を形にした2人の「夫婦」の物語(ストーリー)」

小渕夫妻が二川におちついて、はやくも4年の歳月がながれた。その間、かれら夫婦の小さな製糸場は、岡磧司方の酒蔵を改造したものから山本喜一方の裏屋へ、さらに野口長五郎家の持ち家へと転々としているけれど、移転の都度、その規模が大きくなって、1883年(明治16年)の夏には、すでに50名の工女を擁する、ひとかどの製糸場であった。会計事務と工務係には、専門の男子を入れて、工場経営にふさわしい形態をととのえることもできた。

このとき、会計事務に雇われたのが後藤次郎蔵である。さて、その1883年(明治16年)の夏、三河地方におそろしいコレラ病が流行し、二川の宿場は急に灯が消えたようなさびれ方となった。医学がすすみ、衛生思想が普及し、社会制度の進歩した今日からみれば、創造もつかぬことであるが、当時、コレラ病は、八つ手も、御加地もなんにも、いらぬ、ほれて、ほれられた、仲じゃとて ころり(コレラ)と死ぬでは、ないかいなと俗謡にまでうたわれたくらい、恐怖すべき伝染病であった。これはまるで軒並みに人間の生命をうばっていく悪魔であった。そうして、このコレラ病の蔓延に手をやいた額田県庁では、防疫の対策として、他国ものの出入りを厳禁する県令を公布し、また戸籍のないものは、額田県に居住することをゆるさぬ、という方針をとった。この県令が公布されたとき、小渕夫婦の顔色が、さっと草色に変った。

 

「あなた」

 

「ウム」

 

「もし、わたしたちの戸籍のことで、大厳寺の和尚様にご迷惑がかかったらどうしましょう」

 

「わしが心をいためているのも、そのことなんだ。このうえは、一日も早くコレラ病の蔓延がとまってくれることを、神仏にすがるよりほかに、どうしようもないね」

 

「それに、役場の尊重さまが、この春からかわって、こんどの村長さまは、たいへん規則のやかましいお方だとか、そんなことも噂話できいておりますし、こんな騒ぎから、わたしたちのことが、上州のうまれ在所のほうへ知れるようなことが、万一にも、あったとしたら・・・・・志ちは、それが心配でなりません」

 

「ふーむ」

 

「たとえ、どのような事変がおころうと、あなたは、わたしの夫です。あなたを上州へかえしたりは、しません。あなたとお別れするくらいならしちは、コレラにかかって死んでしまったほうがましです」

 

「志ち、苦労をかけるなあ」

 

「あなた・・・・」

 

志ちは、徳次郎のまえに泣き崩れて、

 

「あなたこそ、大事な大事な一生を、この志ちのために、棒にふってくださったんですもの。志ちは、しあわせです。志ちは、いのちをかけて、このしあわせをまもります」

 

しかし、おそろしい変事は、やはりやってきた。それは、徳次郎がコレラにたおれたのでもなく、また、志ちがそれに感染したのでもなかった。夫婦のものが、ひそかに旨をいためていたとおり、戸籍の問題であった。はじめ、この二川宿におちつくことにきまったとき、かれらは、大尊厳寺の和尚さんをたずねて、仏前に自分たちの前歴を告白し、いつわりの戸籍も大厳寺の和尚に作ってもらい、役所に届けた。

 

ある日、志ちの所に警察が来て、戸籍法違反、不義密通罪で徳次郎と、和尚を捕らえ、それぞれ7年、5年、刑に処せられ、志ちは7ヶ月の未決拘留となった。和尚は3年目、徳次郎は4年目に獄死してしまいました。お世話になった人、そして愛する人を同時に失ってしまったのである。当時を振り返るとさぞかし、志ちの心は沈んだのであろう。

 

その事を知った上州地元中村家が大厳寺に埋葬した徳次郎の遺骨を持ち去ってしまったり、志ちが警察から帰って来ると近隣の人は冷たくなり、育てた女工達も引き抜かれ、あちこち製糸場ができてしまった。ところが多くの女工達はしちの帰りを待っていた。

 

ここで、志ちもまた運命の打撃にたえて行こうと云う、強い意志を固めた。夫の3年忌も過ぎて、東海道線が全面開通した年、人目を避け故郷上州の夫と在所の墓参をして、帰りの宿で頼んだあんまが10年前捨てた我が子「よね」だった。志ちは、よねを引き取り婿を迎え一戸をもたせた。

 

その頃になると二川から豊橋にかけて新しい製糸場が出来て、資本の関係から志ちの工場は経営が苦しくなって来たが、志ちはそれまで製糸場で引き取らない玉繭から立派な生糸を採る技をあみ出した。他の業者と競合する事なく、安くて入手し易い玉繭を使った新製糸産業を起こした。

 

「愛が実を結んだ時

その糸は桐生、足利。八王子などに道が開け、その節(ふし)織物の名声は高まり丹後、加賀、越後方面から続々注文が来るようになり、輸出もされた。(男工100人,女工1000人)一方しちは製糸業者の組合を組織し、各種博覧会に出品して賞を受け、大正天皇に女性初の個人拝謁し、82才で永眠した。

コレラがもたらした一つの物語で「愛」が成功をもたらしたのである。コロナウィルスの連日のニュースで気持ちは暗くなるが、志ちと徳次郎を教訓に、これまでお世話になった人や愛する人への感謝を忘れず生きていくと良いです。お仕事ができる、健康である、家族に会える等、「当たり前の事」に、日々感謝をしましょう。普段何気なくしている行動や生きる意味をしっかり考える事もできる。「2020年」という来る時代の転換点は、身近な人々への愛をテーマに、これからあなたができる何かを準備をしていくと良いでしょう。「コレラ」の歴史を学び、俯瞰する事で「コロナ」に立ち向かう準備をしていきましょう。

 

 

「いつまで続く、蔓延するコロナウィルス。」

2020(令和2)年5月1日(金)現在、増加をたどり終息する目途が立たない状況である。感染確認の対応のため横浜港、長崎港に停泊させた「ダイヤモンド・プリンセス」や「コスタ・アトランチカ」の隔離状態。5月7日(木)以降も、緊急事態宣言の延長がほぼ確実(5月4日に延長決定)。日本の歴史を振り返ると、全国で感染病がたびたび大流行して、人々の生活に潜み都度、人々を苦しめた。実は「コロナ」と症状は違うものの、感染経路や感染拡大の仕方が類似している感染病がある。江戸時代末期から明治時代、そのあまりの致死率の高さから「コロリ」「鉄砲」「見急」と呼ばれた「コレラ」を例に考えたい。

 

「コレラの症状」

コレラは、潜伏期間は5日以内であり、突然腹がごろごろ鳴り、水のような下痢が1日20~30回も起こる。下痢便には塩分が混じる。また、「米のとぎ汁」のような白い便を排泄することもある。腹痛・発熱はなく、むしろ低体温となり、34度台にも下がる。急速に脱水症状が進み、血行障害、血圧低下、頻脈、筋肉の痙攣、虚脱を起こし、死亡する。極度の脱水によって皮膚は乾燥、しわが寄り「洗濯婦の手(指先のしわ)」、「コレラ顔貌」と呼ばれる特有の老人様の顔になる。治療を行わなかった場合の死亡率はアジア型では75~80パーセントに及ぶが、エルトール型では10パーセント以下である。胃切除がある場合は胃酸による殺菌効果が無いため菌が小腸に達しやすく危険である。現在は適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントである。

 

「日本で初めてのコレラ上陸」

日本で初めてコレラの感染が確認されたのは、1822(文政5)年8月14日で、この病気の手掛かりはなく、予防措置を取ることは全くできなかった。「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」と記している。特に長崎での流行は激しいものがあったようで「ほぼ全ての家庭がその病に苦しみ、家族全員がその犠牲に陥るケースもあるほどであった」と、その惨状を伝えている。不幸中の幸いというべきか、当時は箱根の関所が機能しており、九州で発生したコレラが江戸に波及することはなく、収束へと向かった。

 

「第2次コレラ流行」

ところが日本国内で1858(安政5)年にコレラが2度目のコレラ大流行となった。前年米艦ミシシッピー号が清(現在の中国)から長崎に持ち込んだ。江戸に飛び火したコレラは、8月上旬から中旬にかけて蔓延し、葬列の棺が昼夜絶えることなく、大通りや路地につらね、どこの寺院も列をなした。焼場では棺が所せましと並べられ、江戸だけでも死者10万~26万人出たという。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大し、深刻な打撃を与えた。このときの大流行はとどまるところを知らず、1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内の至るところで発生し、場所によっては致死率8割。この2回の大流行時、正確な罹患数と死亡者数は定かではなく、ある程度、具体的な数字が記録されるのは1877(明治10)年になってからである。

 

「第3次コレラ流行、その後の歴史」

この年の9月8日、厦門(清国)を出発した船が長崎に到着。この航海の途上でひとりの水夫が死亡。長崎の外国人墓地に埋葬。それからしばらくして、船と陸との間の外国人の往来を世話していたひとりの日本人水夫が、病気になったと思ったらその日のうちに亡くなった。コレラの発生でした。しばらくしてコレラは長崎を超えて九州全土に広がった。折悪しく、九州の一部では当時、1877(明治 10)年は西南戦争が勃発、戦線でコレラが発生し、帰還兵によって全国に感染が広がった。この西南戦争の混乱が、より一層、感染拡大に拍車をかけた。「日本におけるコレラ」には、この際の罹患者数と死亡者数が掲載されている。「この時の流行では、日本全体で13,710人が病気にかかり、7,967人が亡くなった(致死率58%)。以後、1879、82、86年も多くの犠牲者 が出た。1879年~86年の長崎県内患者数に対する死亡者数の割合は 61.8%で、他の病気と比較しても極めて高い。1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行時の数字も残されている。

「1878年にコレラの流行はあらたに猛威を奮い始めたが、かつてほどひどいものではなかった。日本全体では患者数967人、そのうち死者が275人であった。しかし、1879年、この伝染病は3月はじめに四国の松山で発生し、九州の大分へと至った。この1879年の大流行には、次のような逸話があり、西日本でのコレラ大流行を受けて、日本当局は1879年7月にドイツの汽船「ヘスペリア号」に対して検疫を要求するも、ドイツ船は無視して出航。砲艦の護衛のもと横浜港に強行入港。(ヘスペリア号事件)この年は横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが大流行し、患者は全国で約16万8,000人、コレラによる死者は1879年だけで10万400人にも達している。国民は「コレラが流行していた清国から来たヘスペリア号のせいで、関東で被害が拡大してしまった」と捉え、「すべては海外列強と結んだ不平等条約のせいだ」との認識を広めるきっかけとなり、条約改正要求の高まりをもたらした原因のひとつとなったと言われている。ちなみに、日本がようやく海港検疫権を獲得するのは、1894(明治27)年に陸奥宗光外相の下で結ばれた日英通商航海条約などの改正条約が発効した1899(明治32)年まで待たなければならなかった。

 

「明治政府の対応とコレラ一揆」

この大流行を受けて、内務省は急遽「虎列刺病予防法心得」(1877年8月27日付、達乙第79号)を府県に発している。たとえば、その心得の付録「消毒薬及ヒ其方法」中の「第3、便所芥溜下水等」では、「(下水溝渠ハ)日々之ヲ疎通シ水ヲ灌テ洗浄スヘシ、甚シク汚穣ノ滞塞シタル所ハ石炭酸ヲ注クヲ良トス」と記し、コレラなどの伝染病予防のための下水渠の掃除を推進しています。明治19年(1886)の「虎列刺退治」という錦絵によると、コレラに見立てた怪獣は、頭が虎、胴体は狼、そして、なぜか睾丸が狸という、3獣が合体したものとなっています。続けて読むと、虎(コ)、狼(ロ)、狸(リ)、つまりコロリとなる。この怪獣は消毒薬も予防薬も効かない強敵ですが、水からうつるから飲み水には気をつけた方がよい、食物にも気をつけた方が良い、トイレはよく掃除して清潔を保つようにと、予防の留意事項について、当時から広報されていた。コレラを「虎(頭)」「狼(胴)」「狸(睾丸)」に模した「虎列刺退治」という風刺画も登場。衛生隊がこの化け物に消毒薬を噴霧している。コレラ感染者の行政への届出制度が規定された明治10年(1877年)の「虎列刺病予防法心得」は、現在の感染症法の原点のひとつである。明治政府は衛生、防ぼう疫えき 体制の整備を急ぎ、1879年に「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、80年 には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」を公布していった。幕末から明治初期の人々はコレラ退散を願って神仏に頼り、 各地で「疫神祭」、「コレラ祭」を開いた。また明治に入ってからは対策にあたる行政や警察の措置への不信から様々な流言が広がり、各地で「コレラ一揆」「コレラ騒動」といわれる、人々と防疫や避病院建設にあたる行政当局、警察との衝突が発生した。住民の警察に対する不信感がうかがえる。衛生面だけでなく当時の警察が日常的に強権的だったことが背景としてあったのかもしれない。明治政府は地租改正、徴兵令などの文明開化、近代化政策をあらゆる分野で推進したが、衛生面でも同様であった。コレラ対策は日本の衛生行政の原点といわれるが、当然当時の人々には戸惑い、混乱が生じていたのである。しかし、海外から入り込んだコレラも、明治中期以降、猛威をふるうことはなくなり、西洋から導入された近代的衛生行政も次第に人々に受容されていった。

 

「決め手は『濃厚石炭酸水』」

1885(明治18)年に当時の内務省衛生局が発行した「虎列刺病流行紀事」という資料が残っている。当時の政府がどのようにコレラに対抗しようとしたのか、記録されている。たとえば明治18年8月29日、長崎港、横浜港、赤間関(山口県)に対し、「船舶検査規則実施為致候條此旨告示候事(船舶検査をするように)」と、内務卿伯爵山県有朋名義で発している。同年9月8日には「消毒法ヲ施ス可シ」として、消毒を必須とする船舶として、次の船舶を指定している。

・航海中に数名の下痢病者またはコレラの疑いがある患者が発生した船舶
・コレラ患者の死者が出た船舶で、消毒が不十分だと認められるとき
・コレラの流行地から、古着やボロ、その他コレラが伝播する恐れのある荷物を積んでいるとき
・原因不明の死体を積んでいるとき

では当時、どのような消毒法が行われていたのか、その一端が、明治15年6月に布告された「第31號布告虎列刺病流行地方ヨリ來ル船舶検査規則」に見られる。コレラによる死者、もしくは患者に直に接する衣類、手ぬぐい、寝具等は焼却するか、濃厚石炭酸水に浸すか、または熱気煮沸等、適当な方法で消毒という内容。この「濃厚石炭酸水」は、

・結晶石炭酸四分ヲ水百分二溶解シタル者

現代における「消毒用フェノール水」を指す。この措置がどれほどの効力を発揮したのか、いまとなっては知るすべはないが、当時、濃厚石炭酸水への信頼は厚く、コレラ患者の発生した船室や厨房の消毒にも「結晶石炭酸水ヲ以テ十分二洗滌」し、かつ「亜硫酸瓦斯ノ蒸留法ヲ行ウベシ」と書かれている。また、コレラによる死者や患者がいない船舶の場合にも「四十八時間以内(消毒二必要ナル時間内)適宜碇泊セシメ消毒法ヲ行ウベシ」と定めている。当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出ている。以後、1890(明治23)年、1895(明治28)年、とたびたび国内で大流行し、ようやく落ち着くのは1920年代に入ってからのこととなった。

 

「海外でのコロナの例」

近年、わが国では年間、数例程度の届出数のコレラですが、世界では、毎年、推定で130万人から400万人の患者が発生し、21,000人から143,000人の方が亡くなっている。2017年は、ソマリアにおいてコレラが急増。WHO(世界保健機関)によると、現在、31,764名(うち、死者618名)が罹患している。コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。2009年1月29日現在、ジンバブエで流行中のコレラの死者が3,000人に達し、なお増え続けている。アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行(パンデミック)を示したのは19世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。その後は、7世紀の中国、17世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まる。1817年、カルカッタに起こった流行は、アジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラ禍のためにベルリンで死去しており、1832年にパリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエ(フランス語版)フランス首相が死亡した。以降、1840年から1860年、1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型の大流行があった。しかし1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった。だがアジア南部ではコレラが常在し、なお流行が繰り返され、中国では1909年、1919年、1932年と大流行があり、またインドでは1950年代まで持ち越し、いずれも万人単位の死者を出すほどであった。一方、エルトール型コレラは1906年にシナイ半島のエルトールで発見された。この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりを見せており、1991年にはペルーで大流行[注 2]が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生が見られる。1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行しているが、世界規模の拡大は阻止されている。ハイチでは、ハイチ地震 (2010年)以降、突然、コレラが流行して1万人以上が死亡した (ハイチのコレラ流行)。2016年12月1日、国際連合は地震後に支援にあたっていたネパールの平和維持活動部隊がコレラを持ち込んだことを認め謝罪した。2017年、モザンビークでは、3年連続でコレラの流行が深刻化なものとなった。2017年1月から3月の間に1,222人が感染、2人が死亡している。また同2017年、イエメンでは、政権側とイスラム教シーア派武装組織のフーシによる内乱が長期化し、国内の衛生状態が極端に悪化。国際連合児童基金への報告によればコレラの流行が深刻化し、同年5月前後の1カ月間に約7万件の感染、うち600人近くが死亡している。

 

 

■参考資料

明治時代にも流行病が大発生 – コレラと明治人はいかに戦ったのか

コレラの流行 ~西洋文明への反発と受容~

「ダイヤモンド・プリンセス」から下船始まる 新型コロナウイルス陰性の乗客

長崎クルーズ船の外出記録判明 市内感染「可能性低い」

コレラ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『静岡県史』資料編 17  近現代二  688  頁

『静岡県史』別編2 自然災害誌 第3章第8節 杉山弘「コレラ騒動論―その構図と論理―」(『日本の時代史第22巻自由民権と近代社会』吉川弘文館) 鹿野政直責任編集『コレラ騒動 週刊朝日百科日本の歴史97』(朝日新聞社)

北里柴三郎「日本におけるコレラ」/内務省衛生局「虎列刺病流行紀事」ほか

「日本の細菌学の父」北里柴三郎

「丸山義二著 「小渕しち」」

死と伝染病

あさコラム vol.53 感染症エクスプレス@厚労省 2017年5月12日

 

 

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2019年11月20日の中部経済新聞に掲載されました

   

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