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年譜

CHRONOLOGY

経歴
日本の歴史
1847 群馬県勢田郡富士見村大字石井字芝百拾番地徳右衛門次女として出生。
1856 母の指導にて繰糸を習い、家系を助く。 1853年ペリー浦賀に来航
1862 前橋市佃ヶ澤製糸家蔦屋三次方に雇傭せらる
1863 製糸蔦屋に1年勤め、優秀な技術を工場主に惜しまれたが退社した。
1864 斉藤米吉を小渕家の養子として結婚。
1867 苦難の生活が続いた為に、三年間に4度も流産し、5度目に盲目の娘を出産した。長女よね。 大政奉還
1879 夫米吉との耐久生活に終止符を打ち、繭糸の取り引きで知りあいとなった中島伊勢松(後に
徳次郎と改名)、当時41才と共に長女よねを残して出奔した。
表向きは伊勢参りといわれている。
途中、二川の橋本屋に泊る。田原方面にも出掛けたが、最後二川に留まり製糸業に専念した。
1882 野口長五郎氏裏屋へ移住す2ヶ年在所。
1884 二川地方に伝染病流行、無籍者の追捕事件、被告事件。後藤次郎蔵氏入社。
会計事務を管掌す。男女工で50名。
1885 大岩、萬屋に借家、約十年在所。
1886 夫徳次郎氏岡崎にして死亡。
1889 父徳右衛門死亡。
母たつ女死亡。享年82才
大日本帝国憲法発布
1892 生糸業より玉糸専業となる。
1893 製品は八玉寺、京都、福井県地方へ取引せらるるに至る。
1894 養女の姪に養子某を配したが、彼女の心に合わず、後離籍す。 日清戦争始まる
1897 現在の場所へ移転、敷地200余坪に工場を建つ。
1899 三遠地方製糸業者69名同業組合を組織し、主務大臣の認可を得、製品格付検査、職工保護規則が設けられた。
1902 東三の玉糸「金桜路」ロシアへ輸出。
1903 第5回内国勤業博覧会に出品、褒状及同牌を受く。後藤次郎蔵氏死亡。
1904 菊水社設立、同業4名結合、原料の共同購入及製品の販売其他を行う。此の年の釜数100釜に増加、生産高200百梱に及ぶ。
1907 釜数150釜、生産高300梱に増加。
1908 釜数216釜、生産高500梱に及ぶ。
1909 三遠玉糸同業組合功労賞記念盃を受賞。
1911 明治天皇名古屋へ行幸、輸出玉糸一括奉献。 大逆事件判決
1913 大日本蚕糸会愛知支会より功労表彰記念品受賞、同支会品評会出品一等受賞。
陸軍特別大演習御統監に際し、名古屋離宮に於いて陛下に拝謁を賜わったのは日本の女性として初めてのことであった。
1914 本県立名古屋高等女学校校友会に招待出席松井愛知県知事県下模範工場として視察。
名古屋離宮にて、天皇陛下鶏格玉糸上覧、御買上の光栄。
東三、一市五群産業資料展覧会へ工場の諸統計、写真、製品、其他を出品。一等賞を受く。大正博覧会へ出品、銅牌受賞。
1915 名古屋離宮鶏格玉糸一括天覧。農工時報社長より第三回勤業表彰さる。 中国に21ケ条の要求
1916 工場法実施さる。
1917 玉糸製品の正量検査取引実施さる。
1918 本工場一部類焼、直ちに復興。
第二分工場二川駅前にて開業。
シベリア出兵
1919 大暴風雨のため第二工場250坪倒壊、直ちに復興。248釜に増加。 米騒動起きる
1920 第二工場敷地内へ大講堂を建設す。建坪120坪。経済界の大打撃を受く、6月より3ヶ月間組合全部休業。
1923 玉糸は欧米、南洋印度埃及に輸出さるるに至る。しち病に罹り、心身の自由を欠くに至る。
1925 豊橋市東田町へ第三工場設立、敷地2100坪、釜数100。
1926 三ヶ工場の釜数878、男工100人、女工1,000人。
1929 しち83才(かぞえ年)の高齢を以て満面の笑みをたたえながら、眠るが如く成仏
1930 しちの銅像は岩屋山麓に、三遠玉糸製造同業組合により建像される。
1942 大東亜戦争中銅像は供出(弾丸材料として)され、
1986 その後42年間生い茂る草木の中に台座のみ残す。糸徳製糸の旧従業員の手で、銅像が再建された。

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